岡潔(1901〜1987年)は日本の数学者で京都帝国大学を卒業し、数学の分野においては多変数複素関数論を生涯のテーマにしていた。京都帝国大学時代には湯川秀樹、朝永振一郎らも岡の講義を受けており、物理学の授業よりもよほど刺激的だったと語っているそうだ。兎に角、数学の分野で世界的に有名な日本の科学者である。数学者でありながら、情緒の大切さを訴えており、その点でとても興味深いので記事にしてみた。自分なりの解釈で書いているので詳細は原文を参考にしてほしい。
岡潔の言っていたことで、ここで伝えたいのは”西洋的な物質第一主義でものを考えるのでなく、東洋的な情操的・情緒的な知を身につける大切さ”である。”感情的”というと意志薄弱で、自分を律することができない人という印象があるが、一方で”義理人情に厚い”では人徳があるような表現で尊ばれる姿勢もあり、情にも階層があるように思う。一緒くたにして、なんでもかんでも”感情のコントロールができない人”のように情を捉えると間違った理解に繋がる。情にも高次のものから低次のものがあると自分は考える。高い知能があるように情緒にも高い情、低い情があるように思える。
情というのは、人や物、空間、出来事に対する感覚があると思う。要は外の世界に対するその人なりの感じ方である。人は感覚器を通してしか外界との接点がない。目で見たり、聞いたり、触れたりしている感覚を頼りに世界を形成している。その感じ方は人それぞれで、同じものを同じように感じているとは限らない。何かに対して”面白がる”というのは、人生生きている上でとても大切に思う。旅行や食事をする、服やPCを買うにもお金が必要で、お金がないと面白いと感じることができないが、大体自分の感覚では人は飽きっぽいので、どんなに高価なものでも何度も経験すると新鮮味がなくなりつまらなくなる。最近ギターを練習しているが、全く上手にならない。数分練習するとすぐにだるくなってやめてしまう。おそらく上手くなる人は、ギターの音に対する感性が鋭いというか、なんかいい音だなと思うことができるんではないかと思った。好きこそものの上手なれというが、それにのめり込むことができるのは優れた能力だと思う。理性的に物事を考えると生きること自体がコスパが悪いので死んでしまえばいいとなる。いかにつまらない日常に”もののあわれ”を感じて生きるかが楽しく生きていくコツではないかと考えている。
自分のやりたいことを我慢していると、だんだん何がやりたいのか分からなくなってしまう。自制しすぎて自分の心の声が聞こえなくなる。特に、自分のやりたいことのために食事制限したり、勉強したりするのは良いが、人の価値観を押し付けられてそれに向けて我慢すると非常に良くない。子供の受験、特に中学受験の弊害は子供の感性をダメにしてしまうことがあるように思う。人から褒められる、すごいと思われることが生きがいになってしまい。承認欲求が助長され、人が自分の物差しになってしまう。自分の人生を他人に支配されてしまっているように思う。受験勉強の勝者のような人で能力が優れていても、急に大人になってからモチベーションが下がったり、平凡でそつない仕事しかしなくなる人は”もののあわれ”が分からなくなってしまっているのではないかと思う。情のレベルが低いのである。
今回岡潔を取り上げたのは、冒頭にも述べたように、理性の頂点とも言えるような人が、情の大切さを語っていたからである。このような傑出した人でさえ、理屈で考えても真理に到達できないのだろうと思う。いくらAIが進んで、コンピューターの性能が上がっても株価の上下がわからないように、理屈で未来は予想できないのである。人は自分の感覚器を通して物を見ている。それが実在してるかどうかわからなくてもその世界を生きている。映画のマトリックスのような仮想現実を生きていても自分では分からないし、人が同じものを見ているか分からないのである。世の中のありようをいかに感じるかで人生変わってくるのではないかと思う。