人は誰でも無条件に受け入れてもらいたいものだ。条件付きの関係はそれがなくなると関係が希薄になってしまう。自分を最も受け入れてくれる存在といえばまず、両親だと思う。次に兄弟、親戚か。人間関係の極意は相手を受け入れるということだと思う。その辺について私見を述べたいと思う。
人間にとってのほとんどの悩みは人間関係からくると言われている。物理的な問題の場合、例えば道に岩があって通れないなどは岩を迂回して通るか、通るのを諦める、あるいは岩を運ぶかである。毎日岩を避けて遠回りしていると、それがだんだん当たり前になり、その苦労を忘れてしまう。
人間関係も同じようなことが言える。例えば自分が好きな相手がおり、関係を続けたければ相手を受け入れるしかない。嫌いなところも当然あるだろう。顔は好みだが性格は悪い。性格は良いが、お金にだらしない。優しいが束縛する。それ以外にも細かい仕草や言葉づかい、癖が目について気になってしょうがないなどもあるだろう。そんな時、ついつい相手と自分で損得勘定をしてしまうことがある。”自分はこんなにも我慢して相手に合わせているのに蔑ろにされている”、”好きなことばかりやっていいな”、”自分がいなくなれば相手は困るに違いない”といった思いが湧いてくる。
”やってみせ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かし”と山本五十六が言ったそうだが人の言動を変えるというのは並大抵ではない。配偶者、親子、兄弟、上司、部下など根本的には変わる人は変わるが変わらない人は変わらない。話し合いで越えられない壁が必ずどこかで出てくるように思う。同じ人間でも人と自分は違う性格、経験を持っているのだから。それ以上の部分については自分で態度を示すしかない。スポーツでは背中で語ると言ったところだろうか。相手が気づく、変わるのをじっと待つのである。それでも変わらないところは正直諦めるしかないと思っている。関係が断てるのであれば断つ。しかし、一番困るのは断てない場合である。
関係が断てない場合、あるいは切りたくない(捨てられたくない)場合は受けいるしかしょうがない。この時に、損得勘定が頭をよぎるともやもやしてやりきれない。色々あるけど飲み込むしかないのである。自分が歳をとってよかったと思うのは、勿論全てではないが、この”やりきれなさ”を抱えながら過ごすことができるようになってきたことだろうか。いろんな経験をすることで、”これはどうしようもないパターンだ”と諦めがつくことである。変にもがいて余計に自分の首を絞める、判断を間違えることは減ったように思う。
一方で、切れない関係の時にどうやって自分の中で折り合いをつけるかも重要である。どの記事か動画か忘れたが、ホリエモンが自分の母親がマンションの管理人がしたいと言った時に、”子供なんかを相手にするボランティアをした方が良い”とアドバイスしたり、”町内会の役員をしているとめんどくさい人が必ずいて、そういう人とやり取りをしていると張りあいになり長生きする”、みたいな話を見聞きしたことがある。なるほどなと思う、ストレスが全くないのもまたストレスになる可能性があるということだ。張り合いも大事なのである。
無条件で相手を受け入れるというのは、血縁関係かよほど相手のことが好きでないとそういう風にはならないと思う。相手に受け入れられたいと思えば、相手を受け入れるしかない。また、受け入れるには信頼関係を築くのに時間がかかる。相手との相性もあるが、それ以上に時間が大切だと思う。会話をしなくても同じ時間を共有する。雰囲気で相手の気持ちも非言語的に伝わるし、慣れる。同じ釜の飯を食うというが、苦楽を共にすることで、相手の真の姿も見えてくるだろう。そうすれば、何かあっても”これは表面的なのでほっといても大丈夫”とか”このサインは見逃してはいけない”ということがわかる。学生時代の友人の方が大人になってからの友人より気心が知れているのは、相手の’底’を知っているからだろう。人間関係で心の傷がある人は、初対面だとわざと怒ったり攻撃的になったりして相手がどれだけ受け入れるか’底’を探ってくることがある。動物もそうだが、時間をかけて一緒にいるとだんだん受け入れてもらえる。犬や猫も一旦家族認定すると、とことん優しいと思う。本来人間も同じような性質を持っているんだと思うが。
いずれにしても、人間関係を維持しようとするとある程度受け入れるしかないのではないかと思う。