最近なんか生きづらいと感じることが多い。経済的にも精神的にも豊かさがなくなったように思う。ニュースやメディアで報じられている情報は過多になっており、何が正しいかもわからない。SNSやモデルケースに当てはめ、他人に自分の幸せを規定される生き方もなんか違う。実体験に基づく経験に優るものはないと自分は考えている。自分なりの直近の生きづらさについて考察したいと思う。
子供の頃(1980年台)に駄菓子屋でブロイラーhttps://www.broiler.jp/products/tebasakiという真空パックに入った手羽先が四十円だったか五十円だったかで売っていた。自分でも食べていたが、近所の野良猫にご褒美的な感じで与えていたものである。最近スーパーでなんか懐かしいと思って手に取ってみると百二十円くらいまでなっていたので驚いた。昔は自販機に百円入れるとコーラが買えていたが、今では百四十円もする。単純にブロイラーは2倍以上、コーラは1.4倍以上に値上がりしている。一方で、日本では給料が30年間上がっていないらしい。医者の給料もおそらく就職した20年くらい前から変わっていない。当直や外来のバイト代も変わっていない。
自分の両親はサラリーマンと専業主婦だったので、医者の家族というものの生活がどんなものかは分からなかったが、一馬力の勤務医である今の自分の生活を見てみると金持ちとは言えない。ネットに出ているような同年代の平均給与よりはもちろん多いが、子供の教育費が鬼のようにかかるため、生活は楽とは言えない。ディズニーランドに行く、外車に乗るなど、ちょこちょこ贅沢するとあっという間に赤字になってしまう。”医者”という言葉の響きだけでなんとなく金持ちなのかなと思っていたがそうではない。というのも、収入が増えれば増えるだけ税金も鬼の様に上がっていき、所得制限に引っかかって子供手当や高校の授業料面授与の恩恵には与れない。生かさず殺さず、薄く広く税金を徴収するのが今の政府のやり方なのだろう。東日本大震災の復興税という名目で税金が増えたり(今となっては何に使われているのかも分からない)、配偶者控除もなくなり現役世帯は大変だろうと思う。二馬力でそこそこもらっている方が、税金的には有利なのかもしれない。
戦後のベビーブーム世代である現在の70-80歳くらいの人口は多いので、それにかかる年金も多いのだろうとは思う。自分が高校生の頃に、”今後、超高齢化社会になっていくから大変だ”みたいなニュースを見たが、今まさにその頃になっている。2.5人で1人が65歳以上の高齢者で、高齢者も悠々自適とはいかずに、マクドナルドのアルバイトや警備員として働いている。高齢者もお金がないと(小遣いやお年玉、入学祝いなど)、子供や孫から自分達に関心を向けてもらえない。とても世知辛い世の中である。
ニュースを見ていると、政治家の献金問題が報道されている。金額的には数百万から数千万と幅があるが、自分は額が問題なのではなく、特定の企業・団体からの意見ばかりが反映されることが問題だと思う。れいわ新撰組の山本太郎議員が国会で”企業の内部留保がだんだん増えている”と言っていた。企業の役員報酬は天井知らずに上がっていき、法人税はますます下がっている。一部の人間だけが、自分では使いきれないようなお金を手にして、ほとんどの一般庶民は”茹でガエル”状態になっている。自分は政治・経済は素人なので、ニュースで”優秀な人材を内外から確保するのに、高額報酬は必要だ”と言われれば、そういうもんかと思ってしまうし、高齢者が多いから税金や社会保険料が増えても仕方がないかと思ってきた。しかしながら、問題の根本は、単純に利己的な考え方が肯定されてきたのが問題だと思う。
自分の周りの環境を見てみると、特に自分の少し上の世代は、自分の所属する団体に有利に動いて何が悪いという発想があるように思う。自分達の医局、自分達の関連病院、自分達の学会が有利になるような行動原理が働いており、時として公益性から外れてしまうことも見てきた。学会の理事選、代議員選などの時は票まとめも行われているらしいことも聞いたことはある。医学部の教授選にしても、必ずしもその領域で心技体に優れている候補が勝つということではなく、その領域のことは全く分からない他科の教授が、それぞれの思惑で投票している様にしか見えないことも実際あったと思う。
国際政治学者の伊藤貫氏が言っていたが、戦後生まれの世代は”思考力が低下している”らしい。それは教育の質の低下であって、戦前特に古典を学ぶ明治時代の教育を受けた人間が少なくなっていることが原因だということだ。最近は進学校では理系に進む学生が多いし、大学の学部も理系の学部が重視されている。単純に理系の学部の方が、すぐに役に立つ、利益を生むことが原因だろうと思う。こうした現実主義、実利主義の考え方は、中身の無い思考力の乏しい人間を作り出すことになっていると思われる。受験勉強で詰め込み型の教育が得意な学生が、”それって役に立つんですか?就職に有利になるんですか?”といった態度で、テクニックばかりを追求し、自分に得にならないことをしない人間になり、そうした人間が政治家や企業・政府機関の重役になることで社会の質が低下してきたのではないかと自分は考える。もちろん、大変優秀な人材も日本企業に多く存在しているのは紛れもない事実であるので、日本の企業や役所を馬鹿にするつもりは決してない。医者として、進学校目線で見た時の同級生の人種(いわゆるエリートコースに進んで行く人々)についての考察と考えてくれても良いかもしれない。
これも伊藤貫氏が言っていたことであるが、最近は大学で古典を学ぶことが少なくなったらしい。古臭いものとして遠ざけられ、これまで数千年に渡って受け継がれてきた人類の叡智である古典・教えを学ぶ機会が少なくなっているとのことだ。確かに、人の生き方や人生観に科学や便利さはあまり関係がないように思う。古代の人は簡単に病気や戦争や些細なことで死んだだろうから、ある意味現代人よりももっと”死”をリアルに感じ、懸命に生きたのではないかと思う。宗教や哲学が色褪せないのはそのせいだろう。人類は何度も戦争を繰り返し同じ穴に何度も落ちているが、少なくとも同じような過ちを繰り返しながらも進歩していると信じたい。言い古されていることだが、螺旋は上から見ると円であるが、横から見ると登っている。人間のDNAが二重螺旋になっているのは、とっても意味深に見えるのは自分だけではないだろう。