”40にして惑わず”という言葉がある。物事についての道理がわかり、人生で迷いがなくなるという意味だと理解しているが、自信を持つのは難しい。能力があるのに自分を過小評価しているといろんなチャンスを逃してしまうかもしれないし、毎日不安とともに生きていかなくてはいけなく息苦しい。自信過剰だと、周りの人から信用を失うかもしれないし、失敗を繰り返すことになる。自分がこれまでの人生の中で”自信”がどのように変化してきたかにフォーカスして自分史について話してみたい。
幼稚園、小学生の4年生頃まではあまり自分についての興味はなかったかもしれない。むしろおもちゃや遊びなど外の刺激に興味があり内省的に自分を見ることはあまりなく、自分について他者からどう見られているか?自己評価(自我)については小学生の高学年くらいから芽生えてきたと思う。小学生の頃は、足がはやい、面白い、勉強ができる、背が高い、力が強いなどが周りの評価だと思う。自分のその頃の自己評価は主に、勉強ができる、面白いだったように思う。また、この頃から今までやっていた冒険ごっこ(川に入って生き物を捕まえる、段ボールで基地を作って中で駄菓子を食べる、カッターナイフで木を削る)が面白くなくなっていった。冒険ごっこで今まで得られていたような面白さが感じられず、母親に最近遊んでも面白くないと相談したところ、”勉強する時期がきたのよ”とか言われて勉強に目を向けるように促された。熱中できるものがなくなってきて毎日がなんとなく物足りなくなった。小学6年生の頃からなんとなく塾に通いだし、まあまあ勉強ができて、上のクラスに入ったりすることでなんとなく楽しいと感じた。”あー自分は勉強はまあまあできる方なんだ”と思った。
中学に入ると、柔道をやっていた友達に誘われて柔道部に入った。何も考えずに入ったが、以前このブログでも少し書いたが、ガチガチの体育会系の部活だった。何年も連続で全国大会に出場しており、マイクロバスで遠征に行くような柔道部だった。とにかく練習が厳しくて午後になるときつい練習が始まると思って毎日憂鬱だった。盆と正月に少し休みがある以外は毎日練習だった。練習中は水も飲めなかったし、たまにくる機動隊員の先生や接骨院の先生にしごかれた。接骨院の先生には締め落とされた。今だと問題になるかもしれない。同級生も遠征や練習試合で顧問の先生に拳骨で頭をこづかれていた。殴られても”ありがとうございました”と言って下がる。普段は生きてて楽しいと思うことはあんまりなかった。サッカー部やバスケ部が長髪をなびかせて女子と下校しているときに坊主頭で柔道漬けになっていた。よかったことは、試合で勝てたことだった。最終的には団体戦だが自分の代では県大会、地方大会で優勝し、全国大会でも3位になった。この時の経験は今でも自分の根幹を支えている。努力でなんとかなるという成功体験と、自己肯定感は努力を続ける原動力になっていると思う。中学生の頃に高校でも柔道を続けるつもりがあったので、警察官か機動隊員になろうかと思っていた。推薦で入れるほど、個人としては強くなかったので受験で県の強豪校に入ろうかと思っていたが、勉強がまずまずできたので部活の顧問には進学校を勧められた。この頃は、坊主だったのでとにかく夏の総体が終わって早く髪を長くしたいと思っていた。
結局高校は県立の進学校に行くことになった。高校に入ると周りの生徒はみんな勉強ができる人ばかりだった。この頃は勉強ができることだけではキャラ立ちできなかった。幸い柔道での経験からスポーツできる人枠に収まったように思う。進学校の柔道部は弱かったし、過去の栄光からプライドが邪魔をして練習には身が入らなかった。夕方にテレビで”未来少年コナン”の再放送があったため、部活をサボって帰り怒られた。中途半端に柔道をして、強豪校に進学した中学時代のライバルにボコボコにされて、大学ではもう柔道はやめようと後に思った。高校一年生の頃に彼女ができたが、最終的には振られてしまった。「あいみょんの猫」https://girimaro.com/?p=223に詳細は書いたがだいぶ落ち込んだ。その後自信をすっかり失った。失った自信を取り戻すために、いじけながらも勉強して気を紛らわせていた。振られた彼女が医学部志望だった。その時はなぜか勉強でも負けてしまうと自分には何も残らないと思っていて自分の殻に閉じこもりながら勉強した。現役は直前に伸びると言われていたので、志望校の赤本が全く解けなかったが”いつ解けるようになるのかな”なんて考えているうちに現役の受験に失敗した。ちなみにこの時は医学部ではなく、生物工学部を受験した。浪人して最初に受けた模試で偏差値が10くらい上がってビビった。毎日ゲームセンターに言って格闘ゲームをしていたせいか最終的には現役時代+5くらいの偏差値に落ち着いた。その頃自分は難しい問題を半分とくよりも、比較的簡単な問題をミスなく解くほうが得意だということに気がついた。センター試験もよかったので医学部を受けた。本番の二次試験前は全然寝れなかった。数学の問題もかつてないくらい難しかった。確率の問題の答えが約分できない大きな数字だったので落ちたと思った。
なんとか大学に入ったが、大学はつまらなかった。何がつまらないかというと勝負や競争がないことだった。中学時代は柔道で勝つことで自己肯定感を得ていた。高校時代は勉強で大学に合格することが目標で頑張っていた。目標がなくなり、毎日必死に何かをしなくていい状態になり物足りなさを感じた。せっかく大学に入ったのだから勉強すればいいかもしれないが、進級するのに必要以上の努力は無駄に感じた。周りではパーティーピーポーが楽しそうにしていて眩しかった。いわゆるリア充というやつだ。遊んでいるだけでなく、自分なりの趣味を持っている人も眩しく見えた。大学に入りまた、自分を肯定するための何かを見つける必要があった。結局大学時代は、友達の家に入り浸り怠惰な生活に終始しており、なんの生産性もなかった。バイトでもして海外旅行にいけばよかったなと今では思う。このなんとなくのだらだら感は医者になってからも続いていた。仕事も最初は向上している感じがあり楽しいが、だんだん慣れてやっつけ仕事になってくると飽きてしまった。節目になったのは、大学院に進学してからだった。
大学病院では難しい疾患が治療対象で、治療に至るまでのプロセスに市中病院で扱う疾患にはない複雑さがあり面白かった。研究も思い通りにいかないことの方が多いが、知識が増えていくことで点が線になり、頭の中で別の回路と繋がっていくのが面白かった。その頃は、自分はまだ何者でもない感があり、海外留学したいと思っていた。幸いチャンスがありアメリカに行くことができ、海外生活も体験することができた。アメリカ留学時代には有名な病院で仕事をしていたが、そこでスタッフとして活躍するスーパー日本人にも会うことができて自分との距離を肌で感じることができた。井の中の蛙大海を知ったかもしれいないと思った。
とても長くなってしまったが、今まで書いたのは前置きである。自分で言うのもなんだが、そこそこなんでもできたので大きな挫折はしてこなかったかもしれない。しかし、器用貧乏というか、柔道、勉強、医学でそれぞれそこそこはできたが、トップオブトップになる器量は自分にはなかった。おそらくそれは、本質的にその行為にのめり込んでいないことが原因かもしれない。損得勘定や周りの目を気にすることもあり、頑張ってきたが、それと心中するかもしれないように何かに取り憑かれたり、熱中できるものまではなかったかもしれない。自分の中で”あーこんなもんか”というのを知ってしまうと飽きてしまう性分があるので、限界を自分で作ってしまってきていたように思う。あとそれぞれのステージで、自分のアイデンティティーを変えていた。勉強で相手に敵わなくなれば、スポーツで、またはその逆なんかで自分のプライドを保っていたように思う。
40を過ぎて人生の半分が終わった。20歳の自分よりも60歳の方が近くなった。今までの経験から、最近は人生楽しければ良いと思うようになった。また楽しまなければ損だと思うようになった。人の目もあまり気にならなくなってきた。落ち込んでもまたこれかと思うようになってきた。恋愛で振られても、自分全部を否定する必要がないことも経験から学んできた。学校で小さな世界で生きていると、そのグループの価値観が全てのようになることもあるが、無理にその価値観に合わせて生きる必要がないことも覚えてきた。全ては経験から学んだことだ。大人になるということはある意味、いろいろな可能性を諦めて、自分の考えの中で生きていくことになる。それが楽だからだ。苦しいが年をとってもチャレンジを続けることで、精神的に若くあることもできる。自信を失うこともあるかもしれないが、チャンスは転がってくるし、自分を見失わなければそれに気づけるし楽しむことができると思う。