他人の評価は難しい。それぞれの立場で人の見方は全く変わるからだ。上司に好かれる人、嫌われる人、後輩に慕われる人、後輩に嫌われる人、様々なパターンがあると思う。自分は基本的に、自分の実体験でしか人を評価しないようにしているつもりである。要は色眼鏡で人を見ないということだ。当たり前のようなことだと思うが、自分なりにそう思うことについて述べようと思う。
自分はコーネリアスの小山田圭吾が好きだ、小沢健二と共にフリッパーズギターとして活動していた頃からのファンである。みなさんご存知のように小山田圭吾は学生時代に、精神障害者の生徒をいじめていたことをしゃべり、とある雑誌で記事になり、東京オリンピックのタイミングで叩かれることになった。音楽監修として不適切ということだ。
確かに障害者を馬鹿にした行為は許されることではないし、馬鹿にされた生徒やその家族がどれほど傷ついたかわからないし、現在小山田氏を許しているかもわからない。しかしながら、率直に言って、ただ単に自分は小山田圭吾のファンであり続けていたし、今後も変わらないと思う。都合が良いかもしれないが、自分にとっては小山田圭吾の音楽とその”事件”は無関係としか感じていない。
自分の職場でも非常に嫌われている上司が何人かいるが、普段話していると至って普通で、自分にとっては何が悪いのかわからない。それはおそらくかなり年齢差があって自分が直接パワハラや利害関係がないからだろう。噂で聞いてると、その上司たちのことは全く信用できないが、普段の生活でそれをいちいち気にしている時間もないし、その上司のアンチに対して同情する義理もない。結局、自分の目でしか判断できないし、当事者でない人間が何かの物事の善悪に首を突っ込んでも碌なことがないし、すべきではないと思っている。
最終的にはその人の”良い、悪い”は公益性だと自分は考えるようにしている。悪いこともしているが、大勢の人にとっては有益な存在であれば良しとする考え方だ。あと、色眼鏡でその人のことを見ていると、大抵その感情は相手にも伝わり自分に被害が及ぶこともあるし、他人の考え方で自分の人付き合いが規定されるのもいやだ。さらには、いろいろな考え方を受け入れられないと自分の成長も妨げられるし、そうした人たちの考え方も知ることができない。偏った考え方になってしまうと、結局自分が損をするような気がする。
たとえ、癖のある人でも相手のペースに合わさなければ付き合いを続けることはできる。自分が利用されているなと思うときは自分から離れていけば良いのである。たとえ嫌いな人がいても”いつか天罰が下るはず、いや下るべき”などと思っていると、自分が結局振り回されることになってしまう。悪い人は必ずいるし、自分や他人の人生に対して潔癖でいるとうまくいかないと自分は考えている。